歴史的・技術的・社会的価値のある施設遺産 日本一の提高を誇る壮大なロックフィルダム「高瀬ダム」や、水神様と祀られる近代農業開発の礎となった「艶三郎の井」、世界かんがい施設遺産に登録された「滝之湯堰」と「五郎兵衛用水」、フランス式階段工と自然との調和が美しい「牛伏川本流水路（牛伏川階段工）」、資材運搬のために造られた近代化遺産の木造吊り橋「桃介橋」など美しい施設が長野県には多く点在するのだ。 高瀬ダム 北アルプス槍ヶ岳に源を持つ高瀬川に、うずたかく積まれた岩石の壁が立ちはだかる。高瀬川の急峻な流れを利用して昭和54（1979）年に東京電力が建設した、ロックフィルの水力発電ダムだ。 ダムというとコンクリートの高い壁が浮かぶが、高瀬ダムは岩石を積み重ねた「ロックフィルダム」。堤高176ｍ、堤体積1159万㎥、最大出力128万kW。その高さは既設のロックフィルダムのなかで日本一を誇り、すべてのダムのなかでも黒部ダムに次いで第2位。提体積では岐阜県徳山ダム、岩手県胆沢ダム、群馬県奈良俣ダムに次いで4位と、とにかく大きい。戦後、土を盛ってつくるアースダムにかわって安定性の高いロックフィルダムが台頭してきたが、当初は高瀬ダムほどの規模のダムは造れなかった。それを打破したのが飛躍的な技術革新だ。河床の大規模な掘削を行い、そこから出た自然石を積み上げる高瀬ダムもまた技術革新に貢献し、「土木学会技術賞」「土質工学会技術賞」など数々の賞を受賞してきた。曾野綾子は小説『湖水誕生』で、その建設に関わる技術者たちの熱意や技術などを記している。 県下にあるダムの多くがその当時、導入できうる技術を駆使し、人々の暮らしのため、あるいは自然との共存などを目指して建設されてきたのだろうと、高瀬ダムの歴史が語っている。 艶三郎の井 伊那地方では、水田用などに天竜川の支流の水を頼っていたが、度重なる干ばつや洪水で地域の人々は水不足に悩み、古くから水抗争が絶えなかったという。そこで、この地に室町時代から続く旧家の御子柴家の７代目、艶三郎は私財を投げ打ち、長さ約600mの横穴式井戸の灌漑施設を完成させた。井戸は正確に一定の割合でどの用水路にも配分されるよう円筒分水型をしている。現在もコンコンと湧き、艶三郎の名が付けられている。若き日は水抗争の先頭に立ち百姓たちのために大暴れしていたが、ある日、戦うよりも安定した米作りが人々の生活のためだと、灌漑施設を作るための水脈を探し当てることに目覚め、農地を買い占めては掘削をした。 しかし、もともと地盤が柔らかく掘削の途中で壁面が崩落したり、資金が底をつくなど困難が続いたが、水路設計図を引き、水路上に母井戸となる縦井戸を堀り、そこから横穴を掘り進め、70〜80m先にまた縦井戸を掘る。これを繰り返し約10年の歳月をかけ遂に完成させたのが、円筒の中央に水が供給される円筒分水型用水路だ。度重なる困難に「完成の折には水神様にこの身を」と願をかけたことを守り、完成時に自害する。今も地元の人々は艶三郎を水神様と呼び尊ぶ。 滝之湯堰 初夏の田園風景が広がる八ヶ岳山麓北部。豊潤な自然の恵みを感じられるが、江戸時代までの諏訪地方は水不足に悩まされた荒れた地であった。村人たちと協力し用水堰（農業用水路）を切り拓いたのが江戸時代中期から後期にかけての治水家・坂本市之丞。号は養川。地元の人々は親しみを込めて「坂本養川」とよぶ。 　 自然の川は高い土地から低い土地へと向かって流れるのに対して、養川が開削した用水は等高線に沿うように流れて行く。自然の川や谷を越える際は「樋」と呼ばれる橋に水を流して水を運んでいく仕組み。綿密な計画によってつくられた堰は「繰越堰」とも呼び、現在も受益者によって当時ととほぼ同じ構造で維持管理されている。 養川の功績は閉塞状況に陥っていた水体系に対して、従来からあった堰を利用しつつ新しい堰を開削し、水体系を根本から再構築したことだ。15年の間に15本ほどの堰を作ったと伝わり、その中のひとつが養川が最初に手がけた堰「滝之湯」だ。平成28（2016）年11月に長野県初の世界かんがい施設遺産として「大河原堰」とともに登録された。 五郎兵衛用水 江戸時代の一大工事が、全国でも有数のブランド米〝五郎兵衛米〟を育んできた。佐久市浅科地区（旧五郎兵衛新田村）を流れる用水路「五郎兵衛用水」が、平成30（2018）年8月、建設から100年以上経過し卓越した技術、かんがい農業の発展、貢献した施設として「世界かんがい施設遺産」に選ばれた。広く豊かな田園地帯に通る1本の用水路。蓼科山麓の清水と粘土質の土壌に恵まれ、緑の絨毯を敷いたような佇まいに、秋は浅間山を見上げる水田一帯に、はざ掛けの稲穂が黄金色に並び秋の浅科の風物詩ともなっている。しかしながら、この地域はかつて自然災害と戦乱により荒れ果てた大地だった。 江戸時代初期、幕府から新田開発の許しを得ていた上州南牧羽沢の豪族であった市川五郎兵衛真親が私財を投げ打って完成させたのが、「五郎兵衛用水」だ。佐久地域の三河田新田などをすでに手掛けた実績もあり、小諸藩から許可を得て一大事業に乗り出した。蓼科山中に水源を探すところからはじまり、細小路川と鹿曲川との合流点で取水し、矢嶋原まで水を引いてくるという工事は、高度な土木技術と大量の資金と労働力が必要で、それを市川五郎兵衛が挑み、開墾し新田開発を成し遂げる。 　 用水路の長さは全長20㎞。難所では掘貫（トンネル）を掘り、「築堰」と呼ばれる盛り土の水路を築くなど、当時の最新土木技術が採用されている。 牛伏川本流水路（牛伏川階段工） 松本市の南東、牛伏川を源流に向かうと、水と緑と石積みがつくり出す美しい堰堤が迎えてくれる。フランスのデュランス川サニエル渓谷にある階段工を模してつくられたもので、大小さまざまな石を階段状に空石積みにした国重要文化財登録の「牛伏川本流水路（牛伏川階段工）」、通称「フランス式階段工」だ。延長141m、19段にわたる石段に、透明な水が軽快な調子で流れていく。 　 信濃川水系の牛伏川は、信濃川に注ぎ込む犀川・奈良井川・田川の支川で、延長約9kmの一級河川である。明治初期、新潟県下の信濃川の土砂堆積は、牛伏川の土砂の流出などが原因とされた。そこで内務省（現国土交通省）及び、長野県の事業として100余基の石積み堰堤が造られ流域に残る。 堰堤の工法は、川の形、勾配によって検討、採択されるが、牛伏川階段工は、長野県内のフランス式階段工としては唯一のものである。上流の石積み堰堤をつくったのちに、下流域で浸食が起こったためにつくられたという。 　 構造物にも、周辺の植栽にも、人の手が加わった風景である。しかし、この風景には、人工の構造物と周囲の自然とが調和した美しさにあふれている。 桃介橋 木曽川には発電所の博物館といわれるほどに、数多くの発電所が立つ。いずれも、電力王・福沢桃介によって建設が進められたものだ。その発電所建設の際に資材運搬のために建設されたのが、桃介橋だ。 　 この近辺では最大川幅のところに架けられた桃介橋は全長247ｍと、木製補剛桁を持った吊り橋としては日本有数の長さを誇る。長さもさることながら、その土木技術に注目したい。吊り橋といえばタワーが2本立つ3径間のものが主流だが、桃介橋はタワーが3本立ち、4径間で構成されている。しかも径間をアンカレッジなどで固定するのではなく、連続した吊り橋として設計されている。大正期にあって、その構造は当時の土木技術の粋を集めたものであることがうかがえる。 昭和53（1978）年、老朽化により通行が禁止された。修復の目処はたたず、廃橋を待つばかりとなったときにできたのが、文化庁による近代化遺産の制度だ。読書発電所、柿其水路橋とともに近代化遺産に指定され、文化財として修復・活用がなされるようになり、修復に際して、かつて資材を運搬したトロッコのレールがあったことを偲ばせるよう、幅2.7ｍの橋の中央には、レールの跡が異なる材と幅の板が2列に配された。現在もその姿は現役の橋として健在である。