日本画近代化の一翼を担った画家 山水や花鳥風月を題材にした輪郭線による伝統的な日本画に対して、輪郭線を用いず色彩を重視した独自の空間表現を確立した菱田春草は、日本画近代化の一翼を担った存在であった。 菱田春草は明治７（１８７４）年、旧飯田藩士・菱田鉛治の三男として生まれた。飯田学校（追手町小学校）に学び、明治22（１８８９）年には東京美術学校（東京芸術大学）の２期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦、川端玉章に師事し、１期生に横山大観、下村観山、西郷孤月が在籍している。卒業後、東京美術学校の教師となるが、岡倉天心とともに辞職し、日本美術院を結成。天心を中心に大観、観山、孤月とともに新しい日本画の創作、研究に没頭していった。 「没線主彩」と呼ばれ、従来の日本画には取り入れられることの少なかった空間性と光の効果を導入した代表作『菊慈童』を明治33（１９００）年に発表。輪郭線をなくし、色のグラデーションによって描かれ、画面に霧や霞をモヤッと描き込むことによって具体的な空気の存在を表現しているため「朦朧体」と呼ばれた。また、空間表現とともに主人公が佇む山中の神秘的な気配の構築にも成功しており、理念的にも非常に優れた作品と評価されている。ただ、この作風は、複数の色彩を混交する手法を用いたために、画面の色が濁りやすいという弊害を伴っていた。そこから脱するため、明治35年頃から春草は色彩の純化に取り組み、同年に『王昭君』、翌年には『鹿』など澄んだ色彩の作品を送り出している。そして明治37、38年の欧米への遊学で西洋絵画の技法に触れ、色彩の重要性を強く認識するようになり、帰国後は鮮やかな色彩を点描風にした作品も残している。 14歳で上京してから飯田へ帰郷したのは数回のみとされる。市内一番のゆかりの地は仲之町の生誕地だが、案内の看板のみが立つだけで生家の面影は残っていない。しかし地元では「春草会」という顕彰組織もあり、地元の春草への想いは強い。代表作『菊慈童』は市民が中心となって募金活動が始まり、5,100万円の浄財を集めて購入費３億円の一部に充てたエピソードを持つ。飯田市美術博物館には『菊慈童』をはじめ、『鹿』『夜桜』など30作品が所蔵されている。 春草は明治44（１９１１）年２月に眼病により失明。９月には腎臓病により36歳の若さで亡くなり、飯田市の柏心寺と東京中野の大信寺とに分骨して眠る。飯田市美術博物館に所蔵されている晩年作の『春秋』（１９１０年）は日本の伝統技法でもある琳派の装飾性と西洋絵画の写実性が融合した斬新な画風に満ちあふれ、画才の新たな片鱗をうかがわせている。名作は数多いが、36歳というあまりにも短い生涯が惜しまれてならない。 菱田春草プロフィール 明治7（1874）年、飯田市仲之町に生まれる。岡倉天心によって創立された日本美術院に参加。没線主彩の技法であり「朦朧体」と呼ばれた技法に取り組む。横山大観とともにインド、米欧を訪れ、海外の美術にも造詣があった。帰国後は琳派の手法を取り入れる。失明、腎臓疾患などの病気に苦しみ、36歳で他界する。 飯田市美術博物館 飯田城址の二の丸跡に立ち、春草の生誕地の美術館として代表作といわれる『菊慈童』をはじめ、『鹿』『夜桜』など30作品を所蔵。『菊慈童』は市民が中心となって募金活動がはじまり、浄財を集めて購入費3億円の一部に充てたエピソードを持つ。年6回の常設展では30から40の作品を展示し、その内5点ほど春草作品の陳列を予定（展示作品は問い合わせを）。 柏心寺 鎌倉時代創建の柏心寺。本堂の裏手の墓地中央に春草が眠り、JR飯田駅から歩いて10分ほど。飯田市美術博物館を訪ねながら参拝する、絵を志す若い女性も多いという。飯田市にある「春草会」の総会が年1回開かれ、春草が幼少の頃描いたスケッチ3点が所蔵されている。春草ファンにとっての聖地のひとつといえる。